3月28日の日記

2006年3月28日
ああ、本だけ読んで暮らせたらどれだけ幸せだろう。
地位も名声も金もいらないから、好きなだけ本が読める生活が欲しい。

と長年思っていたのだが、やはり世の中に自分と似ている人はいるものだ。
http://www.webdokusho.com/shoten/gojuku/meaning.php?id=51

で、自分もそういう方向に人生のギアをチェンジすることにした。
本日、第一歩を踏み出してみた。
先は長い。
が、何とかなるだろう。
愛読ブログに「こんな人とは友達になれない」という記述があった。
自分が一つだけあげるとすれば、
・カラオケで何のためらいもなく「世界で一つだけの花」を熱唱する男
だろうか。

3月27日の日記

2006年3月27日

3月25日の日記

2006年3月25日
毎朝、テレビをつける度に、みのもんたがメール問題についてぎゃーぎゃー騒いでいて、「いつまでやってんだ」と呆れていたのだが、とうとう参考人招致だそうだ。アホらしい。下記サイトにいたく同感した。
http://www.jimbo.tv/commentary/000247.php

3月24日の日記

2006年3月24日
近場の書店に行ったら、明日発売予定の「9条どうでしょう」が並んでいた。早速ゲット。わくわく。昼休みに読もう。

3月24日の日記

2006年3月24日

3月23日の日記

2006年3月23日
仕事で外出中、ハローワークの脇を通ったので、何となしに入ってみる。全体にくすんだ感じがするのは、そこに流れている空気のせいか。設置されているパソコンに、年齢を入れ、希望職種はIT関連と入力してみる。1312件。ふーん、と思った。仕事なんて、沢山あるじゃないか。「そこ、俺が使ってるんだけど」と40代くらいの男性に声をかけられた。「すみません」と謝り、建物を出た。
すごいタイトルだ。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=4344011252

いつ頃からか、こういう本が目立つようになった。そういやこんなのもありましたね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861360269/503-7855729-6875933

女の子の家に行って、これが本棚にあったら、かなりひくな、俺は。
まあ、女の子の家に行くことなんて無いから、一人で勝手に思ってるだけなのだが。

「ふん、あんたが甲斐性なしだからでしょうよ」

その通りであります。

3月20日の日記

2006年3月20日
長いメールを書いた。
いよいよ、である。
ドラクエで、裏の世界に初めて行ったときの、ぶわーっと未知の世界が手つかずで広がってる感じ。
そういう感覚が好きだ。
わけがわからなくてすみません。

3月17日の日記

2006年3月17日
今日はなんかイマイチ調子が出ねーなー、と思っていたのだが、昼過ぎに背広の上下がそれぞれ別のやつを着ていることに気づいた。上は三つボタンのぴたっとした奴で、ズボンはぶかっとしてる奴なので、まるでチャップリンのようです。帰って寝るわ。
帰宅後、「風の歌を聴け」を再読する。
ジェイ、鼠、そして僕。どれも村上春樹自身の投影であることに気づいた。
村上ファンなら常識なんだろうな。
一つ一つの文章が、すとんと胸に落ちる。
30歳を超えるまで、分からなかった。
これからしばらくは、色々な作家のデビュー作を読んでみようと思う。
垣根涼介の「午前3時のルースター」を購入。

3月15日の日記

2006年3月15日
さて、今日ふと時間ができたので、自分の抱えている業務を分野別に分けたところ、18のプロジェクトに関わっていることが判明した。そりゃあ忙しいわけである。困ったもんだ。まいった、まいった。

でも、今日からの俺は、ちょっと違う。

なんというか、「まあ、誠実にやるしかないわな」と思ったら、すっかり気が楽になったのだ。
「誠実にやりたい」と思っているのに、「誠実にできない」状況になって、その状況と理想にずれがあるから、あれこれ悩むのである。「誠実にやった」結果、間に合わなかった、できなかったら、それまた誠実に「すみません」と言えばいいのだ。そうすれば、理想と現実とのギャップに悩むことはない。なんだ、そんなことかという感じですよ。がんばります。

3月14日の日記

2006年3月14日
田口ランディと玄田有史氏の以下の対談を読み、いろいろ頷いた。
http://www.shobunsha.co.jp/html/tyosya/tyosya-2k3-09-2.html

「火がつかなければ誰だって無能の人」
「ウィーク・タイズ」
「コミュニケーション能力は、実はテレパシーに近い」

なるほど。
どれも思い当たる言葉だ。

3月14日の日記

2006年3月14日
ここのところ、忙しい忙しいと日記に書いていたら、心優しき人々に心配をさせてしまったようだ。心より御礼申し上げます。実際のところはたいしたことないのでご安心ください。
愚痴の原因は、またもや村上春樹さんからの引用なのですが、こういうことなんです。

ーーーーー
言い訳をするのではないけれど、僕には昔から、他人から与えられたものに対してどうしても真剣に取り組めないという困った傾向があって、(中略)。はっきりいえば「やりたくないこと、興味のないことは、何があろうとやらない(やれない)」ということである。もっとはっきり言えば要するに「わがままで、身勝手」ということになるかもしれない。そのかわりやりたいこと、興味のあることは万難を排して自分のペースでしつこくやる。
ーーーーー

という言葉は自分にぴったり当てはまる。
なので、やりたいこと、興味のあることを、万難を排してしつこくやる所存であります。
村上春樹の「やがて哀しき外国語」を読んでいる。
同書に収録のエッセイ「ロールキャベツを遠く離れて」の中で、村上はプリンストン大学の学生に、どうして自分が作家になったのかを説明していた。1979年、昼下がりの神宮球場でのことだ。
(以下引用)
ーーーーーーー
 それから僕は二十九になって、とつぜん小説を書こうと思った。僕は説明する。ある春の昼下がりに神宮球場にヤクルト=広島戦を見に行ったこと。外野席に寝ころんでビールを飲んでいて、ヒルトンが二塁打を打ったときに、突然「そうだ、小説を書こう」と思ったこと。そのようにして僕が小説を書くようになったことを。
もし、あの午後に球場にいかなかったら、僕は小説を書くこともなく終わっていたかもしれない。そしてまあとくに文句もない人生を送っていたかもしれない。でも何はともあれ僕はあの春の午後の神宮球場に行って人けのない外野席に−−あの当時の神宮はほんとうにすいていた−−寝ころびながら、デイヴ・ヒルトンがレフト線に綺麗な二塁打を打つのを見て、それで『風の歌を聴け』という最初の小説を書くことになったのだ。それはあるいは、僕の人生の中では唯一の「エクストラオーディナリーな(尋常ならざる)」出来事だったのかもしれない。
ーーーーーーー

デイヴ・ヒルトンの二塁打を見た人は少なく見積もっても何百人といたはずだが、「そうだ、小説を書こう」と思って、家に帰って書き始めたのは、村上春樹だけだった。なぜヒルトンの二塁打が、村上だけに小説を書かせたのかは不明である。村上自身もそのことについては書いていない。もしかしたら二塁打でなくても良かったのかもしれない。あるいはホームランだったり、三振やファウルだったら、村上春樹という作家は生まれていなかったのかもしれない。つくづく、不思議だ。

3月13日の日記

2006年3月13日

3月11日の日記

2006年3月11日
いかんいかん。
ここ数日、仕事のプレッシャーで参っていた。
が、たかが仕事、されど仕事ですよ。
がんばってやる。それだけだ。

今日はこれから飲みであります。
帰ったら冷凍マグロのように寝る。
一週間が早い。
本来であれば、接する人々に、一人一人丁寧に対応したい。
一つずつの出来事や、頼まれごとに対して、真摯に、誠実に向かい合いたい。
考えなければならないことを、充分に時間をとって考えたいし、
何かを依頼されたら、相手の期待に応えるだけのものを提供したい。

でも、無理だ。
このままでは絶対に無理だ。
どうにかしないと。

「でも、やるんだよ」

か。

3月9日の日記

2006年3月9日
三田誠広氏の「深くておいしい小説の書き方」を購入。
将来、魔法使いの少年が魔法学校を舞台に活躍したりする小説を書けば、ベストセラーになって、さらには映画化されたりして、たいへん銭が儲かるのではないだろうかと思ったからだ。
夢がふくらむなあ。

3月8日の日記

2006年3月8日
昨夜、会社を出たあと遅くまで営業している書店に寄り、講談社現代新書「ミシェル・フーコー」を購入。
以下、一部抜粋。

ーーー
ここに語られている立場から歴史の諸領域を分析しようとするとき、その分析は構想、戦略、戦術を理解可能性の基準として設定する。弁証法的な思考の場合には、その理解可能性は理解の目的論的な全体化にかかっており、多様で開放的な現実は理解可能性の外へ掻き消されていく傾向がある。また、記号学の場合には、コミュニケーションの整合的な構造を社会的な現実ーーたとえば消費行動ーーに対する理解可能性の基準として設定するため、暴力や抗争が内在的に含んでいる理解可能性を逸らしてしまう。これらとは異なり、フーコーの分析が設定する理解可能性のレベルには、構造に還元されえない多様な出来事のセリーが走っている。その出来事の領野では、追補される中心も、メタ・レベルに立つ主体も取り除かれ、あらゆる要素が多様かつ不定な力の戯れ(ゲーム)、力の関係のなかに置き直される。全体かあるいは構造の設定による理解可能性は、それらが一見、倫理的あるいは中立的なものに思えようとも、出来事に対する理解可能性のレベルを逸することになるのである。
ーーー

クラクラしてきた。
がんばって読もう。

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