ブックオフの百円均一棚に、藤原新也氏の「幻世」を見つけ、即座に購入する。ここ2日間、エッセイ一つずつを丹念に読み込んでいるが、20年前に書かれた文章であるにも関わらず、いささかも古びていないことに驚く。例えばそれは、「デザインを憎め」という題の、こんな文章である。

デザインを憎め

 普段はあまり物を買うことに執着がないが、困ったことに、ある一つのものに関しては浪費癖がある。
 冬がちかづくとなぜか無性にジャンパーが欲しくなるというやつだ。日本に住みついていても、旅の途上にあっても、これまで何着のジャンパーを買っては捨てて来たか数え切れない。
 今年の冬も、早々と十一月頃からそのジャンパー中毒が出て、それ相応の金をポケットに突っ込んで街を徘徊した。こうして街を巡りながら毎年想うことがある。年を追うごとにジャンパーらしいジャンパーが街から姿を消しつつあるということだ。ジャンパーらしいジャンパーとはシンプルで機能的であること。マテリアルが外界の変化や抵抗に耐え、長持ちし、汚れや、破れたあとの縫い目も気にならないこと、等々、だが、このハードウェアーであるべきジャンパーが機能、マテリアルとも年々ひ弱になっていって、いくら捜してもこれといった感じのものに行き当たらない。デザインの種類が少ないかというとそうではなく、逆にデザインだけはむしろ毎年増えている。デザインが増えた部分だけ、ジャンパーの基本的な機能美がかえって忘れられ、失われて行きつつある。これはジャンパーのみにあてはまることではなく、今日の商品のほとんどすべての指向にあてはまることのように思える。
 例えば先日、仕事場の近くにある芝浦工業大学の生協に封筒を買いに行ったのだが、十種類近く店頭にあったものの中から、ついに使いたいと思うものを見い出すことができなかった。
 十種類近くある封筒の表や裏に、ことごとく英文字、あるいはイラストで何らかの「デザイン」が施されているのだ。紙質もやたら色で染めたものが多い。要するに、「よけいなお世話デザイン」が過剰に氾濫しているばかりで、私が欲しいと思っていた、「ただの封筒」が見あたらない。私は西部グループが出している無印良品のようなものを求めているわけではない。あの無印というのも鼻につく。私は、むかしから消費者の動向とか、デザインとかいったものをほとんど考えず、のんべんだらりと素朴に作っていた「ただの封筒」が欲しかったのだ。
 これは一種の現代病の鏡みたいなものだ。昨今の商品においてはある基本的な形態を、いかに自らが使いこなし、個性化させるか、という人間と物との間に関わる創意がもぎとられ、すでにあらかじめ、他の人の手によってデザイン化され、疑似個性化されたどれかのアイテムを選ぶだけのシステムになっている。このような「物」に慣れた人間の想像力が萎え、気力衰えて行くのも仕方がないことである。
 物を買う時には「よけいなお世話デザイン」を憎んで避けろ。それはあんたをインポにしてるんだ。

(後略)

これ以上の引用は、引用の範囲をとっくに超えるので差し控える(万一、藤原氏ご本人がここをご覧になり、不快を感じられたらすぐに消します)。

この文章は二十年の時を超えてなお、太い木の幹のような堅牢さを失っていない。挑発する力も変わらない。筆者の視点はいつも「小さな物」に向かう。「小さな物」とはこの文章でいえば「ジャンパー」であり「封筒」である。世間のほとんどの人がどうでもよいと見過ごす「小さな物」の変化に、この筆者は時代の病の兆候を読み取り未来を予言する。そして多くの場合その「予言」はどんな評論家よりも正鵠を得る。この末法の世に正気を保って生きるにはどうすればよいか。筆者はいつも次のように言っているように感じる。視点を変えろ。大勢になびくな。一人でいろ。

それにしてもこの本が絶版なのはもったいないことだ。今こそ世に問うべき書だと思う。

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