4月21日の日記

2006年4月21日
あまりここには仕事のことを書いてこなかったけれど、今日はちょっとだけ書いてみる。

自分は仕事で、時折文章を書くことがある。ここ最近、この日記で「仕事がたいへんだ」と繰り返し書いていたのは、書かねばならない文章が溜まっていたからだ。自分が書く文章は、「無署名記事」と呼ばれるものだ。読者にとっては、誰が書いたかなんてまったく関係がない類いの文章である。大切なのは、登場する人物が誰で、何を言っていて、どれだけ有用な情報が盛り込まれているか。どの店に、何が売っていて、いくらで買えるのか、それが分かればいいのであって、誰がそれを書いているかなんてことはどうでもいい。だから、仕事で書く文章では、自分というものを一切出さないし、出してはいけない。

しかし、私はそうした文章を書くのが嫌いではない。むしろ好きだと言ってもいい。仕事を始めたばかりの頃は、取材したテープを最初から最後まで聞き返した。「なんて話し言葉というのはでたらめなんだろう」とか、「俺の声ってこんなに軽薄な印象なのか」と愕然としながら、プレイと停止と巻き戻しを繰り返し、音声を画面上の言葉に置き換えていく。その作業を数年繰り返すうちに、今ではメモと記憶で7割の文章を書き上げ、重要なところだけテープを聴くようになった。テープを最初から最後まで文章化しても、完成した原稿はまったく元型をとどめていないことが分かったからだ。

話の要点を整理し、言葉のリズムを整え、インタビュー相手の言いたいことが正確に伝わるよう注意しながら、一つの文章を仕上げていく。そのうち作業自体に職人的な楽しさを覚えた。書かれた言葉は、取材を受けた人の言葉なのだが、私というフィルターを通った、私の言葉でもあるのだ。それなりに苦労して仕上げた文章を確認のため先方に送った後で、「うまくまとまってますね」といった返事をもらったりすると、とても嬉しくなった。

仕事において私は透明な媒介である。誰かのメッセージを誰かに届けるという点で、郵便配達のような仕事と言ってもいいかもしれない。手紙を効率的に正しい相手のところに届けること。それが私の仕事である。私が今日何らかの事故に巻き込まれこの世から消え去ったとしても、一週間後には別の人物が私に代わって配達を続けているだろう。世の中とはそういうものだし、そうでなくてはならない。村上春樹はこの仕事を「文化的雪かき」と名付けた。誰かが雪かきをしなければ、道は通れなくなるし、家はつぶれてしまう。

しかし変化は起こる。
ある日、いつものように郵便配達をしている途中で、ふと思った。
「自分で手紙を書いてみたらどうだろう」
それは考えてはいけないことのようにも思えた。そもそも書くことがあるのだろうか。誰に向けて書くというのだ。さっぱりわからない。そんなことは考えるだけ無駄だし、目の前の郵便物を片づけることに専念しなければならない。頭から打ち消して仕事に励むんだ。

その考えは、結局のところ消えなかった。
そして今に至るのだが、まだどんな手紙を書けばよいのか分からない。

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