「誤読」の面白さ

2005年4月27日
昨夜、なじみのバーに行ったら、韓国から来て建築を学んでるキムさんがいた。
キムさんに「将棋やりましょうよ」と誘われたので、一局お相手した。

で、生まれて初めて、将棋の面白さに、気づいたのです。
実感として、面白い……と思ったのです。

なぜか。

「将棋とは、関係性を脱構築しながらコミュニケーションするゲームである」ことに気づいたのだ。

自分でも書いていて何が何だかさっぱり分からない。
だいたい“脱構築”の意味がよく分からないまま適当に使っているところに問題がある。

要するに、こういうことだ。
以下、俺の頭の中。

「ふふふ。守りに入ったな。ほれ、ここに歩だ」
「うわちゃ、こうこられたら歩を置いた意味ねえじゃん。じゃあここに銀を進めてみよう」
「ぐげっ!王手飛車取りだよ!」
「あ!ここに角を置けば逆に王手だ!」
「そこに桂馬かよ……やるなあ」
「おお、偶然、香車が王手をブロックしてる。ラッキー!」

という具合に、自分と相手が指す一手ごとに、盤上の状況がガラリと変化するわけですね。

「自分がここに、この駒を置いたら、相手はこう反応するだろう。その反応に対しては、こう返せるな」という「未来の読みあいっこ」をしていると言ってもよい。

これって、人間同士のコミュニケーションと、同じだなあと思った次第。

自分の「一手」によって、状況が変化し、相手もまた、「一手」を返してきて、状況を変化させる。
それを繰り返しながら、「相手の王をとる/自分の玉を守る」という命題を、持ち駒の持つ機能を最大限有効活用しながら進めていく行為は、人間関係におけるコミュニケーションと、とても似ている。

将棋の駒は、コミュニケーションにおける、「メッセージ」だ。

「相手にどのメッセージを伝えるか」
「相手はメッセージの意味をどう解釈するか」
「相手が送ってきたメッセージの意味はなにか」
「いまこの時期に相手がこのメッセージを送ったのはなぜか」

この解釈がうまくできれば、あらゆる人間関係で「勝利」できるに違いない。

しかしまた、将棋というゲームが差し手によって何百万通りのパターンが生まれるように(だから必勝法が無いように)、コミュニケーションにおいても「解釈の誤読」があるからこそ面白いのかもしれない。

なんかまとまらん文章だが、とにかく、そういうことを考えたです。
ビール飲んで寝ます。

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